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【学生リポート】RCC×広島電鉄「被爆電車特別運行プロジェクト」を本学の学生記者たちが取材

2016年8月、本学で学ぶ学生たちが、「学生記者」として、「被爆電車特別運行プロジェクト」を取材しました。

「被爆電車特別運行プロジェクト」は、RCC(中国放送)と広島電鉄の共同プロジェクトで、「71年前の被爆の惨禍」と「広島の街が、いかに復興を成し遂げたか」について、71年前に走った被爆電車に乗ってあらためて知ってもらうというものです。

詳しくはこちらをご覧ください。

一般参加者と共に被爆電車に乗りそれぞれの視点で取材を行った本学の学生記者たちは、このプロジェクトをどのように感じたのでしょうか。それぞれの視点でリポートしてもらいました。

被爆電車に乗車し、最も印象に残ったのは、「かつて広島が軍都として栄えていた」という歴史が伝えられていたことです。
今年5月、オバマ米大統領が、広島で行ったスピーチ、そしてそれを引用した今年の松井広島市長の平和宣言。その中では、朝鮮半島、中国、それから東南アジアの人々に対する加害的な行為について、言及されています。
また、広島出身の作家、栗原貞子氏の「ヒロシマというとき」という詩に
ー〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうかー
という一節があります。私は、広島が平和を訴える都市であるならば、加害の過去にも目を向けなくてはならないといつも思ってきました。「電車に乗る」というごく日常的な行為を通して、71年前にも変わらずここにあった人々の時間に思いを馳せ、木の窓枠から見える景色に71年前に彼らが見ていたものを想像することができました。70年は草木も生えない、と言われた焼け野原。「電車が走る」という日常が取り戻されたことが、どれほど人々を勇気づけたか、また、終戦を境に軍都「廣島」から平和都市「ヒロシマ」へ変わったことについて、深く考えさせられました。
[<乗車日>8月7日:佐久間優衣(国際学部3年)]

プロジェクトで乗車した電車は、被爆電車653号という被爆当時に実際に広島の街を走っていた姿を忠実に再現したものです。この車両は普段は運行しておらず、車体の色や内装も普段運行している電車とはかなり異なるため、参加者はもちろん、街行く人たちも珍しそうに電車の姿をカメラに収めていました。
車内では車窓から見える街の様子を眺めつつ、車内に設置されたモニターに映る戦前・戦後の広島の姿を比較したり、路面電車がどのような過程を経て原爆投下後の3日後に動き出したのかなどを学んだりしました。参加していた幼い子供たちから高齢の方まで、多くの人がこのプロジェクトに参加することにより、「路面電車が広島の街の変遷とどのようなかかわりを持っているのか」ということを学んでいました。
広島に原子爆弾が投下されライフラインが破壊されていた中、職員たちの懸命な努力によって3日後には路面電車は動いていました。原爆投下後の広島中心部では怪我人があふれかえっていた上に、多くの病院も壊滅的な被害を受けており、人々は移動するにも大変な苦労を強いられていました。そのような状況の中、走り出した電車は人々にとって貴重な移動手段でした。また、人々が絶望の淵に立たされていた状況の中で、街中を走る路面電車の姿は単なる移動手段ではなく、まさに「生きる希望」そのものでした。戦争が終わり、復興へと歩みを進めていく中でも広島の人々にとって電車はなくてはならない存在でした。
今回のプロジェクトに参加して、戦中戦後の時代、人々にとって路面電車が「希望」だったということ、そして電車が広島の街の活気を生み出すのに一役買っていたということを初めて知りました。このようなプロジェクトが今後も続いていき、多くの人たちが参加して多くのことを学び感じとる機会があることが重要なことだと痛感しました。
[<乗車日>8月9日:繁本美歩(国際学部2年)]

戦後71年経った今でも、原型を留め、歴史を今に伝えている被爆電車。当時運行していた電車に実際に乗車して、車内の様子や復興に向けての秘話を知りました。
私は被爆電車である653号車に乗りました。1945年8月6日に江波付近で被爆した653号車は、大破したもののわずか4カ月で修復され、2006年まで広島の街を走り続けました。床面や窓枠は木でできており、普段金属製の車両に乗り慣れている私にとっては新鮮で、とても落ち着く車内でした。車内では戦後復興の過程や復興を支えた路面電車についての映像が流れ、参加者はその映像と今の街並みを照らし合わせながら電車に揺られていました。親子で参加した竹田さんは、「平和学習だけでは知り得ないことも知ることができ、貴重な体験ができた」と満足そうでした。
中国放送の担当者・亀井さんによると、このプロジェクトは、被爆70周年の節目に広島電鉄と合同で企画したもので、昨年から開始されたそうです。また、車内で流している映像は、当時も走っていた復興のシンボルである路面電車と、被爆や広島の復興について取材・報道してきた素材を組み合わせて制作されたもので、被爆の惨禍や被爆からの復興を次の世代へ伝えたいとの思いが込められているそうです。亀井さんは、「71年前の悲劇から現在、さらに未来へとつながっていくことを、(参加者の)皆さんにあらためて感じてもらい、『平和』について考えていただくきっかけになればと思っています」と話しました。
[<乗車日>8月12日:山室敦也(国際学部3年)]

車窓の外では、電停で電車を待つ人々が不思議そうにこちらを眺めています。私たちが乗っている現在の濃い緑とクリーム色の車体とは異なり、紺とグレーの2色で統一された、少し夏の空には似合わない暗めの色合いの被爆電車653号です。被爆によって傷ついた人々を乗せ、希望をもたらした被爆電車は、70年の時を経て再現されました。
復元に際して、カラーの資料がなく、確実な色は分からないものの、白黒写真や資料、当時を知る人たちの証言をもとに再現されました。
当時は戦地に向かった男性に代わり、女子学生が車掌を務めていました。女子学生たちは男性と同じ仕事が女性にも出来ると誇りに思ったそうです。とはいえ、大人たちに守られるべき子どもたちですら、勉強ではなく、大人と同じような仕事をしなければならなかった状況は、すごいことではあるものの、複雑な思いに駆られました。電車は全123両中108両が被災した中、原爆投下3日後の8月9日には己斐と西天満町の間で運行が再開されました。
被爆直後は原爆により壊滅的な状態となった広島の街ですが、今では見事な復興を果たし、車窓から見る景色は多くの人々でにぎわっています。早くに復旧を果たした被爆電車は被爆で傷つきながらも、街の復興に尽力した人々に勇気をもたらしました。そんな被爆電車を通して、当時の人々たちに思いを馳せることで幸せな日常を奪った原爆の恐ろしさ、車窓から見える平和な景色の有難さをあらためて実感しました。
今回の企画には、知ろうとする人たちだけでなく、平和を伝えるためにも多くの人がかかわっています。平和を伝え、知ろうとする人々がこれからも増えていくことが、平和の一歩につながると思いました。
[<乗車日>8月20日:瀬川みなみ(国際学部2年)]

なお、本学国際学部の太田育子教授も、「被爆電車特別運行プロジェクト」(2016年11月実施)に参加(乗車)しました。
感想を寄せていただきましたのでここで紹介します。

乗車の際、広島駅に到着した653号を初めて見たとき、なんて美しい!と驚きました。予備知識がなく、塗装も古いままの、“走らないと朽ちてしまう”電車に乗るものと思っていたためです。イベントを知らなかったであろう鉄道ファン風のカメラを持った数人が、驚いたように写真を撮り始めたこともあり、思いがけずわくわくする気持ちで乗車しました。戦前の広島をカラー映像で見たことはありませんが、復元された塗装の紺色や上部の銀枠とのコントラストから、「このデザインの電車が走った広島は、漠然とイメージしていた以上にお洒落でモダンな都会だったのでは」と、風情のあったであろう被爆前の広島の街(そして「あのしっとりした風情は二度と戻らんかったです」とお話しになった老弁護士さん)を想いました。
電車内部は木造で、古い小学校の油引き床や、博物館展示の乗り物のクッションの匂いがしました。私は1962年に千田町の日赤病院で生まれ、大学卒業まで広島で過ごしたため、何度もこの型の電車に乗ったことを思い出し、そういう記憶を有した乗り物や建物に日常接して過ごしていた子供時代へと、気持ちがほどけるように戻っていきました。そして出発。
丁寧に接してくださる広電の運転手さんや車掌さんからは、所作の端々に、同じ作業に携わった先達への畏敬の念や、高齢電車への愛情や、安全を運ぶ自負心が感じられました。そういう頼もしい温かさに包まれて、車内に設置されたディスプレイから流れる解説や時に悲惨な映像や語りを、落ち着いて拝見できました。

映像のなかの女学生で乗車勤務された女性の、電車出発時の「チン、チン」という音まねに、確かに子供の自分もその音を聞いていたと、さらに時間を遡行する感覚になりました。そして、若い彼らが被爆時に五感を通じて受けたショックに思いを馳せて涙がこぼれつつ、同時に、「これほどの悲惨さを体験しながら、何事もなかったように(抑圧して)振る舞う大人たちに囲まれて私は生活していたんだなあ」と、子供時代の生々しい平和教育などで感じた、大人の思いがけない反応への違和感や、それを伝えきれず理解されなかった無力感が、浮かび上がっては涙になって消えていきました。映像の中の彼らになったり、子供時代の自分になったり、不思議な感覚でした。

その間、ずっと感じ続けていたのは、ごとんごとんという座席から伝わってくる音と振動、そして身体が引っ張られるようなブレーキの体感です。電車がこんなにも有機的な乗り物だったと気づき、その分、復興の街を眺め続けてきた653号が、被爆電車と知って乗車している私たちに、日々の市井の人々の営みのあれこれを、淡々と語っているように感じました。
653号の窓も扉も運行中は開かなかったこともあり、窓の外はよく知っている広島の街、2016年晩秋の曇りの情景なのですが、電車内の揺れる空間は1945年当時のまま、ディスプレイに映し出される終戦後の白黒の広島の街並みを走っている感覚がありました(特に、同じ車窓のイラストの背景に、移動しながらの撮影映像が流れるシーンは秀逸と思います)。これは市街地の各所に設置されたセピア色の被爆直後の写真碑を見る時に感じる、1945年と2016年が二重写しに存在しているような(映画「君の名は。」的な)感覚と同じです。
以前から、授業時に学生さんへ「破壊と再生の二重写しの記憶を日常で感じざるを得ない広島はタフな街」と話しているのですが、653号に乗車して実際に復興した街並みを走ると、1945年も2016年も、市井の人々は、気高かったり残酷だったり賢かったり失敗したりしながら、一人ひとり唯一無二の人生を生きているんだなあ・・・と、人間であることの一貫した「哀しさとすごさ」を強く感じた次第です。

当日夜は遅くまで会食となり(来広の美学研究者さんがあまりに羨ましそうで且つグリーンムーバー製造史にお詳しかったので、組立て模型はさしあげました)、翌朝も市街地で所用のため、銀山町のホテルに宿泊したのですが、早朝、電車の往来する音で目が覚めました。広島の人々との営みの音だと思いました。

美しい電車に乗り、子供時代の思い残しを解消し、広島の街と人が、ますます好きになりました。
得難い体験をプレゼントしてくださった、RCC様・亀井様と広島電鉄様に、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
[<乗車日>11月27日:太田育子(国際学部教授)](2016年12月1日 記)


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