広島平和研究所

1999年10月7日 国際シンポジウム

ヨーロッパの戦後和解

 

 第二次世界大戦後、戦禍と相互不信によって引き裂かれたヨーロッパが、欧州連合(EU)というパートナーシップを形成するに至った道のりを検証するシンポジウム「ヨーロッパの戦後和解―地域協力・安全保障への道」(主催:国際文化会館、協力:広島平和研究所ほか)が1999年10月7日、広島市内のホテルで開催された。ポーランドのヴワディスワフ・バルトシェフスキ、フランスのローラン・デュマ両元外務大臣ら、ドイツを含む3カ国・4人のパネリストが自らの体験を基に、歴史認識や市民レベルでの交流の重要性を訴えた。会場には広島市民ら約250人が訪れ、貴重な歴史の証人たちの話に聞き入った。


基調報告 テオ・ゾンマー(「ツァイト」共同発行人)
ヴワディスワフ・バルトシェフスキ(元ポーランド外務大臣)
ローラン・デュマ(元フランス外務大臣)
ウーヴェ・ケストナー(駐日ドイツ大使)
質疑応答




テオ・ゾンマー

(略歴) ハンブルク大学政治学講師の時、ブラント内閣のシュミット国防相の下で国防省企画局長を務める。「ツァイト」 編集長を経て、1992年より同誌共同発行人。「ニューズウィーク」、「読売新聞」では客員編集委員を務める。


(発言要旨) この一千年というものをヨーロッパの歴史の中で振り返ってみると、二つの大きな違いのある認識に突き当たる。一つ目は、進歩の歴史であったという観点である。無知の時代は知識の時代へ、貧困の社会は豊かな社会へと。そして不寛容の時代は忍耐の時代へと変わった。しかし、二つ目の認識とは、ヨーロッパの歴史における影の部分である。この千年間絶えず同胞同士、兄弟同士が争ってきた。バラ戦争、ナポレオン戦争、バルカン戦争、第1次世界大戦そして第二次世界大戦。当時の人々はこの大量の出血から立ち直ることが出来ると思わなかった。しかし、粘り強いリーダーシップのもとに、再生したヨーロッパを作るというところに至った。多くの政治家達がそれぞれの時代のパートナーを得て、独仏間の和解をもたらす上で大きな貢献をした。ヨーロッパの心臓部としてだけでなく、その発展に向けたエンジンとなった。また、ヨーロッパ統合の共通プロジェクトが独仏間の関係を揺るぎ無いものにした。現在も独仏間の関係は非常にスムーズであり、様々な共通の会議を開いている。ポーランドとドイツも同様に和解を果たせると思うが、それは困難な作業だ。両国間においては、ポーランドが数百年にわたりドイツに苦しめられ、1945年を境に入れ代わりの立場になった。その不穏な時期に何十万人というドイツ人が殺されるということがあった。その後冷戦が始まったが、状況が改善するどころが、東西対立の構図の中で両国間の敵対イメージはさらに強化されてしまった。そのような中でいくつかの重要な進展もあった。1970年に国交正常化条約が結ばれ、若い世代に客観的な過去の実像を伝えることを目的に両国の歴史家が会議を開いた。1950年にはオーデル・ナイセ線を国境とすることで両国間の国境問題も解決した。和解とは確かに難しい。しかし、必要な前提条件はすべてそろっていた。一つに、ドイツ人が自分達の過去の過ちを認めた。自分たちの父親、祖父が犯した罪に目を背けることなく、心を開いたのだ。二つに、ヨーロッパ統合のプロジェクトというものが、他国を侵すことなく自分たちの民族性を全うしながら生きる枠組みを各国に与えてくれた。ポーランドはこの3、4年のうちにEUにも加入するであろうが、それがヨーロッパにおける争いの千年の終焉を象徴することになるだろう。




ヴワディスワフ・バルトシェフスキ

(略歴) 第二次大戦中命がけでユダヤ人支援組織に携わり、共産主義政権から迫害を受けたカトリック系知識人。戦後も政治犯として投獄されながらも後に名誉回復。以後歴史学者、ジャーナリストとしての活動を経て、駐オーストリア大使、ポーランド外務大臣を歴任。


(発言要旨) 私は、1922年生まれだが、これによって重要な時代の証人ということが出来るだろう。第二次世界大戦中、私は政治犯として「4424番」という刺青を入れられ、強制収容所に収容された。7カ月後に釈放されたが、その後はポーランドの抵抗組織に入り、ユダヤ人の救命組織のために働いた。1944年には膨大な規模でポーランドに対する爆撃が行われたが、生き延びることが出来た。そのような状況で、ドイツを憎み、パートナーとは考えられなかったし、ましてや講和など考えられなかった。しかし、時代は変わった。ポーランドは長い間、他国によってひどい目にあってきた。スターリンが政治を掌握していた時には、人々は心理的に操られていた。私達は人間として自由な生活がしたかった。しかし、ポーランドにもこの時すでにドイツ国民すべてにあの戦争の犯罪の責任を押し付けることは出来ないとわかっている人はいた。どうしてそのような考え方が可能であったか。ヒトラーの犯罪が数百万人のポーランド人、ドイツ人の間に長年の断絶をもたらしたということを理解していたからだ。それでも、子どもたちが新しい教育を受け、和解の意味を考えることの出来る新しい社会が登場した。政治的発言ではないが、ポーランドがまだソ連の共産主義政権に支配されていた1965年、ポーランドのカトリック司教が「我々は許します。そして私たちのことも許してください」と述べるということがあった。ほか多くのポーランド人も内心このようなことを思っていたはずだ。ドイツでは1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ポーランドでは新しい政権が生まれた。1994年にはヘルツォーク大統領がドイツの過去犯した罪を謝罪した。1995年4月、外務大臣だった私もポーランド人として初めて、ドイツの衆議院で演説をし、戦後ドイツ人を追放し、非常に悲惨な目にあわせてきたことへの謝罪の言葉を述べた。我々の和解のプロセスというのは、自身の憎悪を克服しただけでなくNATOの名においてフランス・ドイツと手を携え、ワイマール3カ国関係という伝統に立ち戻ることであった。過去に犯した過ちについては、公に反省する。真実をいうとなると大変な勇気が必要である。しかし、「真実の精神」こそが和解を可能にする。




ローラン・デュマ

(略歴) 弁護士、ジャーナリストとして活躍する傍ら、1956年にフランス国民議会議員に選出され、以後フランス・ギリシャ民主化運動委員長、国民議会副議長、憲法評議会議長、欧州問題担当大臣、政府スポークスマン、外務大臣、国務大臣等を歴任。


(発言要旨) 条約を結ぶのは外交の専門家の仕事だ。しかし、たとえどんなに多くの条約・協定に調印しても戦争を完全に防ぐことは出来ない。例えば、第一次世界大戦後、ベルサイユ条約が結ばれた。それでヨーロッパにはもう戦争は起こらないのだと当時の人々は思った。しかし、第2次世界大戦は起こってしまった。従って、戦争を防ぐためには別のアプローチが必要だった。そこで、フランスの経験から話したい。1945年のフランスを思い出してみると、国民は全く和解を目指す状態ではなかったし、むしろドイツに対し復讐を願っていた。当時、ド・ゴール将軍は、ソ連にドイツの分割を提案している。彼は後に独仏間の和解推進の中心人物になるのであるが。私はまだ非常に若く、戦争によって非常に大きな苦しみを受けた町から国民議会議員に選出されていた。私自身の父もナチスの人質に取られた上、銃殺されていることもあり、当時私の選挙活動のスローガンは「死者のことを絶対忘れまい。死者の思い出を裏切るな」だった。にもかかわらず、色々な状況が新しい動きを可能にした。様々な人々が「憎しみに背を向けよう。戦争は人類にとって単に不幸であるばかりでなく、愚かな行為である」と非常に政治的意欲をもって示した。例えば、ジャン・モネやロバート・シューマン、そしてド・ゴール将軍、そしてそれに続く一流の政治家達だ。ドイツと直接向き合うよりも、むしろヨーロッパの統合という枠組みの中で和解に至ろうとした。経済面を取り上げてみると、石炭鉄鋼共同体がある。ドイツとフランスが戦争の手段である石炭と鉄鋼を共同で管理しようと設立した。その後も様々な共同体が建設され、今日通貨統合まで至った。象徴的な行為も両国民の心の問題上、必要なことだ。例えば、ドイツのブラント首相がワルシャワの戦没者の墓前で頭を下げたことはポーランド人に感銘を与え、ドイツのコール首相とフランスのミッテラン大統領がかつての戦場であるヴェルダンで会見したことは、両国民の心に深い印象を残した。また、全世界の人がそれらの映像を見てドイツの姿勢を改めて認識し、条約とか協定を結ぶ以上に大きな意味をもった。フランスとドイツとポーランドはかつて不幸な三角形だった。しかし、今では非常に前向きな「ワイマールの三角形」と呼ばれている。この3カ国の三角形が戦後の和解について大きな役割を果たしたのではないだろうか。




ウーヴェ・ケストナー

(略歴) 1939年ドレスデン生まれ。法学博士。1963年外務省入省後、政務局東欧課長、同局ラテンアメリカ部長、駐南アフリカ共和国大使、政務局アフリカ部長、同局長などを経て、1999年9月22日に駐日大使に着任。


(発言要旨) 私は、戦後世代ではあるが、ドイツ・ポーランド間の和解をゲンシャー元外相とともに作り上げる幸運を得ることが出来た。そうした作業はまた、ドイツの統一にも至る軌跡となった。和解というものは、それぞれの国民がいかに過去の憎しみを克服出来るかということについて、考え、努力して初めて実現するものだ。実際、政府の要人だけでなく、一般市民や著名な作家、芸術家が大きな力を尽くしている。「真実なしに和解はない」という認識のもとに、ドイツとポーランドの歴史家が共に、過去の戦争について、また、なぜ戦争が起こったのかということについて、資料を集め、研究を進めた。和解というのは、困難な過去を克服するというだけでなく、共通の未来をどう形作っていくかという一種の建築計画である。この新しいヨーロッパという理念を、若い戦後世代が感銘を持って受け止めた。1952年には、戦争に欠かせない資源であった石炭と鉄鋼を共同で管理するという目的で欧州石炭鉄鋼共同体が創設された。同様の考えは、原子力の共同開発を目指した欧州原子力共同体、また、欧州経済共同体、EUへと広がっていった。そして現在、EUはドイツの東側の国々にも開かれている。こうしたヨーロッパの経済的、政治的統合の主要な進展がドイツとポーランド間の国境線問題の克服を可能にした。未来のヨーロッパにおいて、国境は分断ではなく、結びつきを意味するのだ。最近、「震災外交」という言葉が流行している。例えば、トルコとギリシャはともに大地震を経験したが、敵対していた両国で、困っている相手をもう一方が助けるということがあった。また、ポーランドに「連帯」が発足し、政府がその労働者運動に対し戒厳令を布告した際に、西側諸国はポーランドに対し、制裁措置を加えた。そのような中、ドイツの人々は教会などを通じてポーランドの人々に救援物資を送るということがあった。困っている国にとって援助ほど貴重なものはないのだ。象徴的な行為というものも和解という作業には必要不可欠だ。60年前に第2次世界大戦が勃発した場所で今年9月、ドイツのラウ大統領とポーランドのクワシニエフスキー大統領が握手するということがあった。また、ドイツの統一後、イギリスのエリザベス女王とフィリップ王子がドレスデンを訪問し、かつてイギリスが爆撃し破壊した教会に十字架の寄付を申し出るということがあった。このように目に見える象徴が大事なのだ。




質疑応答

 

バルトシェフスキ:誰でも人を許せると簡単に言える立場にない。それぞれの立場やきっかけというものがある。国家間には、国としての存在意義があり、歴史の中にも色々な関係がある。ヨーロッパの統合でいうと、その中には、共同の行動をとるという大きなチャンスがあった。文化の中にも共通点はあるし、よい方向への協力、違いを超えて友情のための協力が大切だ。

 

ゾンマー:ヨーロッパはその答えを見せた。大切なのは、共通の目的を持つことであり、その目的に向けて努力していくことだ。

 

来場者:第二次世界大戦が終わるまでのドイツとフランス、ドイツとポーランドの関係は日本と中国、日本と韓国・北朝鮮の関係に似ていると思うが、今後両国との関係を改善していく上でのアドバイスを聞かせて欲しい。

 

デュマ:日本と中国、日本と韓国は機が熟してないかもしれない。様々な道、様々な手段を使って、努力を続けなければならない。若い世代に和解という観念を覚えさせていくことも必要なのではないか。

 

加藤:ヨーロッパの和解は簡単に条約を結び、出来たものではなく、憎しみを超え人々の心の中に根付いた和解のレベルに達している。そういったレベルまでの和解を育てていくには、やはり優れた指導者と、市民の勇気が必要であり、指導者に求められるのは、和解を示す象徴的行為を本当に真摯な形で表現することができるかという点にあるのではないか。かつて日本にそのような指導者がいたかということも考えさせられる。